そんなわけで色々書いていただこうと思ってます。
ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。
m(_ _)m
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真の女性は「日本で一番、ゴールドの似合う女」
黄金咲ちひろちゃんです~
*注:鉄馬さんの愛人ではありません(笑)
にほんブログ村 山田鉄馬のデビュー曲
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
(part40)山田鉄馬の風俗綺譚 其の四十
再び新宿・歌舞伎町へ――part3
核心に入る前に、どうしても歌舞伎町という特殊な街の生成過程に触れておかなくてはならない。ジョイパックグループを創始した林以文がレジャービル、地球会館を作ったのが昭和30年代のはじめ頃。この林以文を筆頭に、以降、歌舞伎町のもうひとつのシンボルともいえる風林会館をつくった林再旺。王城、メトロビルの方元俊。アシベ会館の黄江夏。リービルの利騰山など、歌舞伎町の草創期は錚々たる台湾華僑人脈と在日朝鮮人に占められていた。石原都知事がいうところの“第三国人”が戦後まもなく、葦の原っぱを二束三文の値段で買い占め、やがて訪れる高度成長期には、それらの土地が何倍にも膨らんでいった。
一方で、靖国通りを隔てた新宿駅東口周辺は戦後まもなくは焼け跡に闇市。伊勢丹、三越デパートのある新宿三丁目一帯は闇市エリアで、テキヤ系の尾津組が尾津マーケットをつくり、「光は新宿より」の名キャッチフレーズを掲げて、シキリを入れた。やがて東口、武蔵野通り、三光町一帯が50年~80年代にかけて、文化、流行の発信地となり、奇しくも尾津組組長が提唱した「光は新宿より」が体現される。
同じ新宿でも、そこから靖国通り一本を隔てた歌舞伎町はガラリと様相が変わり、現在のような歓楽街としての体裁ができあがっていくのは、昭和33年の売防法施行以後しばらく経ってからのことである。野郎どもの下半身を慰めていた特殊飲食街、俗に赤線があった新宿二丁目、青線があった現在のゴールデン街からの流出組ばかりか、東京のありとあらゆる風俗が歌舞伎町をめざして集まってくるようになる。
昭和38年に闇市が廃止となった時点から、尾津組のシキリは序序に緩み始め、とくに歌舞伎町は博徒系が進出するようになり、テキヤ系と入り乱れて、混沌とした色合いを濃くしていく。新宿駅周辺と歌舞伎町とは住民もそしてヤクザも住み分けがされていたのだ。一方が文化、流行の発信地として華ばなしく発展していったのに対し、歌舞伎町という街はその発祥からして無国籍であり、他の伝統的な盛り場とは一線を画していたのだ。実質的には立ち上がってわずか30年、その歴史は意外と浅い。しかし、その時空の密度は他のどの歓楽街よりも濃く、最速だった。世界に冠たる歓楽街として秒速でのしあがる。
80年代から90年代のピーク時、歌舞伎町には一日に50万人もの老若男女が出入りすると言われたものだが、あながち誇張ではないだろう。花道通りを堺に、歌舞伎町は新宿駅寄りの一丁目と大久保寄りの二丁目に分かれるのだが、とりわけ“性都”としてのイメージを創り出したのが歌舞伎町一丁目だった。東西に5百メートル、南北に3百メートルの狭い一画に、キャバレー、ピンサロ、ソープランド、ストリップといった従来型の風俗に加え、新たに参入してきたノーパン喫茶、のぞき部屋、個室マッサージ、デート喫茶、ビニ本屋などが派手なネオンを競い合い、あたかも“エロのおもちゃ箱”をひっくり返したような猥雑な賑わいをみせていく(つづく)
竹書房刊 「快援隊」にて連載中!
最近規制ばっかり厳しくなって、
なんか淋しいです。
鉄馬さん、なんとかしてください!