そんなわけで色々書いていただこうと思ってます。
ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。
m(_ _)m
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
写真の女性は「日本で一番、ゴールドの似合う女」
黄金咲ちひろちゃんです~
*注:鉄馬さんの愛人ではありません(笑)
にほんブログ村 山田鉄馬のデビュー曲
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映画「赦免花」制作発表
「赦免花」
佐渡の野面に、紅い野花が咲くと赦免船がやってくるという伝説があった。
江戸末期、火付けの罪という誤認で島流しになった女お雪と
政治犯として流されてきた侍の憲吾。
過酷な生活環境の中で二人は出会い、やがて愛し合うようになるが・・・。
16日夕刻から六本木で映画「赦免花」制作記者発表が行われた。
主役のお雪役の西条美咲、憲吾役の市瀬秀和、そしてこの若手を囲むベテラン陣が
竹中直人、竹内力、片岡愛之助など出演者と軽部進一監督、撮影監督の岡田主、
そして今作品の音楽プロデューサー、河村隆一などが一同に会し、挨拶。
撮影はすでに終了し、編集の段階で9月封切り予定。
この「赦免花(しゃめんばな)」、私の古くからの悪友で
映画プロデューサーの高橋利雄が、
いつかは撮りたいと前から言い続け、暖めてきたもので、
今作ではエグゼクティブプロデューサーであり、脚本も担当している。
これまでに「実録ヒットマン~」(東映)シリーズ、
「MAZE マゼ」(映像新社)などを手がけてきた男だが、
今作への思いは、格別のものがあった。
微力ながら私も広報でお手伝いをしたという訳だ。
記者発表の後、出演者、スタッフの打ち上げパーティがあり、
俳優陣らも交え、盛り上がった。
たくさんの人に支えられて映画は作られる。
裏方で頑張っている人たち一人ひとりの挨拶、苦労話を聞いて、
大変だけどイイ世界だな・・・と羨ましく思った。
竹内力の三本締めで締めるのだが、あのキャラクターのまま、飲み続け、
崩さないところが凄い!河村隆一のナマ唄が聞けたりで、
ホットな打ち上げだった。
きっと「赦免花」も期待通りに仕上がることだろう。
折りしも、3・11東北大地震に撮影中は遭遇し、
さまざまな困難を抱えての制作だった。
封切りが待ち遠しい。
男の美学
団 鬼六死す!~エピソード6
団先生は還暦を過ぎたあたりから、糖尿病が進み、
少しは運動せにゃ、
とゴールデンリトリバーの雌犬、アリスを飼い、
近所を散歩するようになっていた。
しかし、状況は好転せず、やがて係りつけの医者から、
「腎不全、あと半年の命」――と無残な宣告を受ける。
打ち合わせでたまたま団宅に寄った時、帰り際、先生からポロリ、
そのことを告げられ、ショックを受けた。
で、その夜、たまたまだったのだが、
夕刊フジのK記者と飲みの約束があって、飲んでる最中、
団先生の近況が遡上に乗り、うっかり、
「腎不全、あと半年の命」・・・と洩らしてしまった。
いや~これが、どえらい騒動に発展してしまったじゃがの。
翌日の夕刊フジの一面トップに、
「団 鬼六 腎不全、人工透析拒否!!~余命半年!」
――の大見出しでデカデカとバレてしもた。
いや~、その時の団先生の怒るまいこと。まぁ、嬉しさ半分でしたが。
例によって、「このアホ鉄馬が!」といいながら、
内心、まんざらでもなさそうな感じ・・・。
ここで本題だが、団先生は医者から腎不全で人工透析をしなければ、
余命いくばくもない、と宣告されながら、
人工透析を拒否していたのだった。
「そんなね。体に孔を開けて、週に三日も病院に通うなんて、
そんなみっともないことまでして、生きたいとは思わしませんがな」
さらに続けて、「死ぬなら絶対、腹上死やねん!」
とK記者の取材に対して、鬼六らしい大見得を斬った堂々のコメント。
――団 鬼六、一流のダンディズムだった。
これが団先生の言い分で、夕刊フジの記事では
そこが強調され、まぁ、団先生をかっこよく取り上げてくれたという感じで、
思わず団先生もほくそ笑んだものだと思う。
以後、団先生の取り巻き連中、特に各出版社の担当編集者は、
「とにかく人工透析をするべし!」
と進言するのだが、
団先生、依怙地になって、断固拒否!
男の美学、団鬼六流ダンディズムをどこまでも貫こうとしていた。
しかし、このままでは、マジにヤバイ!
そうこうして周りが焦っているうち、これもまた偶然というか、
ひょんな事から、チャンスが訪れたのだった。
私の友人で、日本屈指の実業家であり、ブルースシンガーの橋本ひろしがDJする
文化放送の番組で私がゲスト出演後、
「鉄馬さん、次に誰か大物のゲストを紹介してくれませんかね」
とディレクターKと橋本氏に頼まれ、思い悩んだ挙句、
団鬼六先生を推薦したところ。局側も橋本氏も大喜び。
で、例によって会社の仕事をサボタージュして、
団宅にハイヤーで迎えに出向き、スタジオへお連れした。
そのころ、団先生は体力的にかなり、よれよれで、
DJ橋本氏との掛け合いも、いまいちのノリだった。
その日の収録は私が採点するに、100点満点中の30点くらの出来で、
どうにも団節不発という残念な内容だった。
まぁ、とにかくヒヤヒヤしながら、どうにか無事収録が済んでから、
橋本氏と私と団先生の三人でコーヒーブレイクしている時、
「腎不全、人工透析拒否」の事が話題になり、橋本氏はかなり強引に
「先生、命を粗末にしちゃ駄目です。そんなカッコつけてる場合じゃない!すぐ、人工透析を受けなさい!」
と言うと、すぐさま病院の院長を呼び出し、
「これから団先生をお連れするから、
しっかり診てさしあげなさい!」と命令口調!
なんと、スタジオにロールスロイスが横付けされると
団先生と私は強引に乗せられ、一路病院へ。
どうなるのかと不安になって運転手さんに
「これからどこ行くんすか?」と聞くと運転手いわく、
「練馬、桜台の透析センターです。橋本会長の病院ですから、なにも心配いりません」
って、ひょっとして、まさか橋本氏は病院も経営していたのか?
これはさすがに意外だった。
コンピューター基盤大手のキョウデン、大江戸温泉などなど
のオーナーであることは知っていたけれど。まさかね。
病院に着くと、事情をよく把握していない団先生は
美人の看護婦はいないか、
とそればかり。
やがて、院長の診断を受け、
かなり、ヤバイ状況を悟り・・・
逡巡するも、ついに観念。
翌日から人工透析を始めることが決定した。
というわけだ。
まさに、九死に一生、明日にでもコロリと逝きそうな、逼迫した按配だったという。
奇しき縁とは、こういう事を言うのだと、つくづく思った。
期せずして、わが友人、橋本ひろしは団鬼六の命の恩人ということになった。
以来、先生はこの桜台の病院へ週の内、三日は通い、透析を続け、
美人看護婦連中を集めて屋形船の花見なんかもやっちゃったり、
再び元気になられたのだったが・・・。
最後の愛人
団 鬼六死す!~エピソード5
西永福駅の、ひと気もまばらな商店街を
団 鬼六宅に向かってそぞろに歩くと、
やがて左に曲がった狭い路地にその店があった。
キャバクラ「熱帯夜」――さくらはそこにいた。
ある宴会の帰り、団先生は面白い店がある、と私を誘い、
浮き浮きした顔で私の手を引っ張り、連れてきてくれた店だった。
二人の女の子が席についた。化粧っ気のない、学生バイト風の
いかにも場末のキャバといった感じだが、
六本木や歌舞伎町のゴージャスキャバとは違う、新鮮味があった。
やがて、団先生お目当てのさくらが現れた。
ひとめ見て、まず「おや?」と驚き、「なるほど」とナットクした。
いまどきギャルとは趣きを異にして、
しっとりとした情感を湛えた美しい娘だった。
容貌ばかりか、その恥じらいと節度をもった立ち居、振る舞いも、
どこか古風で優雅さがあった。団先生好み。
やがて団先生は孫ほどの年の離れたさくらをイベントや会合に伴い、
お茶目な団先生らしく、てれながらも堂々と
「俺の愛人や、以後よろしゅう」
と紹介するようになっていた。
さくらは、安紀子夫人も公認で団宅にも出入りし、愛犬アリスの散歩を手伝ったりしていた。
奥さんもなかなか粋な人で笑いながら冗談まじりに
「わたしが本妻の!安紀子です」と
「本妻!」を強調して人に挨拶するのが慣わしになっていた。
団先生がさくらの和服姿を見たいという我が儘を受けて、
この粋な奥さんはさくらと一緒に呉服屋に出向き、着物を見立ててあげたりもしている。
まぁ、家族ぐるみの愛人というか、ヘンタイ関係というか・・・
実態はSEX抜きの女ともだち兼秘書みたいな・・・
なにせ、団先生いわく「もう勃たんから、せいぜいお乳を触るくらいが関の山」
なんだとか・・・
しかし、そのさくらが突然自殺した――
その時の団先生の嘆き悲しみ、取り乱しようは見るも無残だった。
えもいわれぬ慟哭が胸を突き、溢れ出す。
「なぜだ~!」
を幾たびも連呼して、酒をあおった。
「死んで花が咲くかいな」と浮わ言のように、先生は繰り返した。
直後、脳梗塞の発作に襲われ、以後、後遺症で杖なしでは歩けなくなる。
その日を境に団先生は一気に老け込んだような気がする。
さくら、享年24歳。
あまりにも若すぎる死だった。
生きていれば、苦しいこともあるけれど、それにも増して喜びもあるのに・・・。
団先生、おん年72歳、いまから七年前の出来事だった。
自殺の原因はなんだったのか。よくわからない。
聞けば同年代の付き合っていた彼氏の存在もあったとか。
その狭間で、さくらは悩んでいたのだろうか。いまだに謎だ。
が、さくらの残した大学ノートの切れ端に
「先生ごめんなさい。ごめんなさい。
本当に先生を愛していました」――と遺されていた。
さくらが逝って翌年、先生はさくらとの出会いと慟哭の別れを素材にした私小説を上梓。
それが
「最後の愛人」(原題~瘋癲の果て さくら昇天)新潮社刊
今頃、天国で団先生とさくらは酒盛りでもしているんだろうか。
合掌
N医師からの誘いがあり、
久々に、渋谷、円山の頂きに立つ。
団先生の喪も明けていない中、
どうしたものかと渋々だったが・・・。
やんちゃを避ければいいか~、
いや、こんな時だからこそ、やんちゃはすべきだ!
それが団先生への、ホントの供養というものだ!
なんて、言い訳しながら・・・
久々、秘密クラブ「眠れる森の美女」に潜入。
しかし、やはり、どうしても意気は上がらず、
バーで飲みながら、変態連中の乱交を眺めつつ、
団先生をお連れする約束を違えてしまっていたことに、
ふと、気づいた。
団先生が目論んだ、快楽教「鹿の園」の足元にも及ばないが、
この「眠れる森・・・」は、その理想からは、
ちょい軽目だけど、なんでもありのエロスワンダーランド。
もし、団先生をお連れしたら、気に入ってくれたかな~、
それとも「あほかいな」と軽蔑されたかな・・・。
いや、きっと気にいってくれたとおもう。
瑣末なことに忙殺される日々も、
性の深淵に触れる景色の転換は、
惰性からの覚醒でもあったが・・・。
団 鬼六死す!~エピソード4
絶筆!
かねがね、
小説家 団 鬼六の文学的素養はどんな風にして培われたものなのか、
気になっていた。
およそ文学談義とは、ほど遠い人ではあった。
滅多に文学について話題にすることはなかったし、というより、
団先生はそうした「辛気臭い(本人談)」話は避けている風でもあった。
物書きなのに自宅の仕事場を覗いても、文学書の類の蔵書はほとんどなかったし、
自著のあの華麗なる作品群もほったらかしのままで、本棚に飾ってあるわけでもない。
無頼派の最後の文士といわれる所以だ。
そんな作家らしからぬ、野放図なところがとてもお茶目で、私は大好きだったわけだが・・・。
しかし、いつかは聞かねば、と機会をうかがっていた。
どうして、こんなに凄い作家が生まれたのか。その文学の軌跡を――。
公私ともに親しく付き合うようになって数年を経た平成十五年の夏、
あるイベントの帰り、団先生とふたりで、
歌舞伎町ゴールデン街のバーを飲み歩いていた時、
チャンスが訪れた。
狭い急な階段を、転げ落ちないように団先生の背後をガードしながら、
たどり着いた2階にある穴倉のような狭いバーだった。
ゴールデン街には団先生行きつけの店「一歩」、「石の花」など数軒あったが、
そのバーは初めて連れてきてくれた店だった。
すでに何軒目かで団先生はかなり出来上がっていた。
8人ばかりが座れば満杯のカウンターに、幸い、団先生と私の二人きり。
カウンターの中には浴衣姿の、そう、年の頃二十七、八、
羽田美智子似の美人ママ。
「へ~!?」と私は驚いた。
ゴールデン街にこんな穴場があったとは・・・。
ほとんどのバーはお化け屋敷なのに。
さすが団先生、隅に置けない。
互いに焼酎のオンザロックを注文したが、
団先生はチビリと一口舐めただけで、
一向に減らない。私はすこぶるの呑ん兵衛で、
そんな先生を尻目に、ガンガンいく。
それが私の流儀。いざ、飲みの席では遠慮しない。
団先生はもったいぶるように、目の前の、若くて初々しい、
ゴールデン街には不釣合いな美人ママを紹介してくれた。
駆け出しの女優だという。
私はその瞬間、すでに勃起していた。
団先生の原作『外道の群れ』(1996年初版、朝日ソノラマ刊、
のち幻冬舎アウトロー文庫)の
映画化『およう』(2002、シネマジック、配給=松竹)
に出演したのがきっかけだったらしい。
で、その年に封切られて話題になっていた『およう』(竹中直人、熊川哲也、里見浩太朗、渋谷亜希)
の話で盛り上がったのだが、
その美人ママ、大正浪漫の竹久夢二からはじまって、
ついにはなぜか、太宰治の文学談義に突っ走ってしまっていた。
太宰が好きなんだとか。
ちょっと~、美人のママさん、
先生の前で文学談義はご法度なんすけど~。
他に客はいない、
団先生おろか、その美人ママもかなり出来上がっている。
もう深夜も二時をまわっていて、他に客の来る気配もない。
(こりゃ、朝までコースか)
団先生はふんふんと頷きながら、軽くいなすように、
「あたしゃ~、長谷川伸のチャンバラしか読んだことがないから、
そんな高尚なことを言われてもチンプンカンプンや~」
毎度の団先生一流の照れ隠しだ。
そういいながら、
「でも、じつは、ここだけの話、私も太宰は嫌いじゃないんだ」
ポロリ。珍しく乗ってきた。
「自棄になって、女と心中なんてのは、とことんMの心情やねん」
とバッサリ。
「他力本願、ジコチューの権化や。けんど、
それを己の文学として世間様に、裸になって提示した。
命を張って。そこが太宰の本領や。その覚悟は文学者やとおもう。
わしも若い頃は破滅的に生きとったし、ハチャメチャやったけど、
しかし、心中なんてのはわしには及びもつかん。
わしはひたすら快楽教やきに」
などとわけの分からんことを言い始めた。
しかし、なんとなく団先生の言わんとすることが分かる。
私はここが時期だと思った。
私自身、かなり酔っていたが、ここぞとばかり、
「恐れ入りました。ところで、その先生の博識、あのエロでありながら、
研ぎ澄まされた文体、耽美的感性、根っこは一体何なんですか?」
と、さりげなく突っ込む。
しばし間をおくと、先生はボソリ。
「西鶴やねん」
「学生の頃、一時期、西鶴に耽っとった時期があってね。
演劇をやってた関係でチェーホフ、無論シェークスピアも読んでいたが、ピンとこなかった。なんか違うねんね。
それで一時期大衆演劇なんかに走ったり。まぁ、右往左往していた時期があったんよ。
その時かな~。いまどきの若い人は到底、井原西鶴なんて読まんと思うけど・・・」
作家は創作の本音を明かさない。
しかし、語った。初めて。
「へえ~!」
私は意外だったが、すぐに納得もした。
そして、感動に打ち震えた。
なぜなら、西鶴の代表作「好色一代男」の世之介は
私のライフワークでもあったからだ。
偶然とはいえ、奇しき縁とはこのことか。
互いの心の奥底でつながっていたひとつの確信、
それが井原西鶴だった。
これ以上前置きはきりがない。
団鬼六絶筆は井原西鶴だった!
「私本 西鶴草子」
惜しむらく、この連載の書き始めが最後の執筆となってしまった。
「月刊 小説現代 6月号」 (5/21発売) 合掌
「ど、ど、どうした!悪い冗談はやめろ!
ミ、ミ、ミスシンが原因か!俺の責任か~!」
団先生は興奮すると、どもる癖がある。
「先生に責任はありませんよ。私の個人的な考えで決めたことです。
バカバカしくて嫌になりました。ただそれだけなんです。
ナイタイは辞めても先生との付き合いは変わりません。
今後ともよろしくお願いしま~っす!」
「おい、早まるなよ~。俺が社主に取り成してやるから。
必ず戻れ!なっ、おい!」
まだ20代なかば、某経済誌の記者時代だった頃、
趣味の風俗探索にハマリ、
偶然、ナイタイ(当時=歌舞伎町タイムス~後ナイトタイムス~ナイタイ)と出会い、
入社してから早20年が経っていた。
青春とともにあった愛する会社。
私の人生そのものともいえる愛しい仕事。
それと決別することになるとは・・・正直、辛かった。
しかし、私の決意は固かった。
その時すでに、お世話になったいたマスコミ各社の友人あてに準備した、
ナイタイ退社の挨拶状を印刷屋に発注していたのだった。
生活の糧もマジメに考えなくてはならず、もはや猶予はなかった。
なにせ、それまでは結構な高給取りだった。
突然の無給は、いくらなんでもしんどい。
まだ幼い二人の子供を抱えて・・・。
ただ、幸いなことに、当時の私はナイタイで唯一副業が黙認される立場にあった。
TVのコメンテーター、ラジオ、映画出演、週刊誌やスポーツ紙の依頼原稿がしばしばあり、
随時こなしていたが、それらが結構ばかにならない小遣い稼ぎになっていた。
結婚以来、妻に小遣いをせびった記憶がない。
振り込まれる給料は、丸々、妻が管理して、私自身の交際費、遊興費はそれらのギャランティーで充分賄えて、お釣りのくる位のものだった。
しかも、かなり派手な遊興っぷりだったと思う。
退社しての活路はその辺りから開くしかない。
で、「鉄馬舎」という社名まで考え、自分の事務所を興すことを考えた。
友人のイラストレーター、銀角さんにロゴデザインまで依頼して、
素晴らしい作品も出来上がった。
しかし、それから半月ほど経ったあたりから、盟友の小林一朗、
そして当時ナイタイの社長だったF氏、
さらには会社ぐるみで親しくしていたポール・牧(故人)、
などから盛んに、
「誤解が解けたから、帰ってこ~いよ~!」
コールが起き、逡巡することになる。
その頃、当時連載をこなしていた、エロ出版社の雄、T書房、
さらにはM出版などから役員待遇でのハンティング話が持ち上がっていた。
T書房などは、ナイタイの二倍の給料で
「三顧の礼をもって、お迎えする」
――などと、鄭重な役員氏からの挨拶まであった。
今思えば、夢のような時代だったな~。
独立の準備、他出版社からの好待遇での招聘の話、
そして古巣からの帰れ!コール
・・・その三っつの選択の狭間で私の心は揺れていた。
人生に岐路というものがあるとすれば、
私にとっての人生の岐路は、まさにこの時だった。
いま、当時を振り返ってみても、しみじみ思う。
人生も人類の歴史も、その運命の転換は一瞬のことであり、
まさに些細な、あるいは微妙な綾取り糸の匙加減、
何の脈絡もなしに決まってしまうという、ある意味過酷で、
無慈悲で、無責任なものだと、つくづく思うのだ。
私の迷いは三ヶ月に及んだ――。
この間、ナイタイからは頼みもしないのに、給料が振り込まれ続けていたのだった。(私は知らなかったのだが、しっかり妻は管理していた)
揚句・・・結局、私はナイタイに復帰した。
復帰を決断する数日前、まよいに迷っていた私は、ついに思い余って、
団先生に打ち明けた。
「先生!あたしゃ~、どうすりゃいいんでがしょ!」
団先生はポツリと一言。
「決まっとるがな。社主のところへ戻りなはれ!」
・・・そうだよね。
その一言が背中を押してくれたのだった。
結局、なんだかんだと偉そうに御託を述べながらも、
心の奥底で自分が一番願っていた形で、ついに事は終息したのであった。
これが、ナイタイをボイコットして出奔し、
ひと悶着起こした事件の一部始終である。
やきもきしたこの事件も、
しかし発端は団先生であり、
結局、締めてくれたのも団先生だった・・・
まっこと、人の縁とは不思議なもんぜよ。
合掌
女ごころは縛れないけど、
せめて身体は縛りたい
(団先生の口癖part5)
エピソード3<ミス・シン事件~出奔!>
ミス・シン事件~出奔!
「ミス・シン」とは?
「ミス・シンデレラコンテスト」の略称。
ナイタイ主催で、日本風俗ペンクラブが後援し、開催していた盛り場で働くフードル、
キャバ嬢たちで競い合う、日本一の「盛り場女王」を決める人気コンテスト。
起源は古く、
昭和60年2月に施行した新・風営法(改正風俗営業適正化法)の影響で
全国の飲み屋街、繁華街は灯が消えたように活気が失われ、
「このままでは~まずいんでないかい~」
と冗談半分に、
何とか歓楽街を盛り上げようと目論見、そもそも、私が発案し、企画して
スタートしたお祭りイベントだった。
毎年秋に行われ、年々盛大になり、歴史を重ね、
ナイタイがおかしくなりはじめた平成19年まで続き、
残念ながら「第23回 ミス・シンデレラコンテスト」が最後となった。
団先生には平成6年の復筆以降、毎回、審査委員長を務めて頂いた。
私は当初から23回まで実行委員長としてイベントのプロデュースをしてきたのだった。
事件は平成12年10月、第17回の時、起こった。
発端は団先生の些細な一言からだった――。
無事イベントが終了し、いつもの年のように審査員のお歴々、
ゲスト、風俗ペンクラブのマスコミ面々、受賞者の女の子たち、関わったスタッフと
「あ~、こりゃこりゃ」
と上機嫌で歌舞伎町の居酒屋で打ち上げをしていた時、
「社主(ナイタイ創業者)がお呼びです!」と秘書からの緊急コール。
審査委員長の団先生は社主と近くで会食中だった。
(ねぎらいの言葉でも貰えるのかな~)などと、呑気に出向くと、
いきなり、社主の怒号!
「おまえは業者から賄賂を貰って、女王(グランプリ)を決めているのか!!!」
寝耳に水とはこのこと。
もしそうだったとしたら、社主が憤るのも当然だ。
しかし、わたしには何のことやら。
これまでに、ただの一度だってそんな不正なんてしたことはなかった。
――つまり、こういうことだった。
(団先生のお気に入りの子が女王になれず、
格下の賞に甘んじる結果となったことに、さして悪気なく、
社主と会食中にちょっぴり不満をもらした=後日、団先生談)
ということらしい。
団先生は「まぁ、まぁ、大したことではないんですから」
と間をとりなすも、社主のあまりの剣幕に、おろおろするばかり。
社主は怒り出すと怖い。
早くに父を亡くしていた私は、そんな本気で怒ってくれる社主が大好きだった。
(ボクって、やっぱし、ヘンタイなのかな?)
私は編集局に戻り、審査員採点担当責任者のTを呼び、
採点表を再度チェックすることになった。
もはや打ち上げの「あ~こりゃこりゃ」どころではない。
しばらくして、団先生と会食を終えた社主がやってきて、
いきなり、私のデスクをひっくり返した!
編集長用で高級木造りのデカくて重たい机だ。
相当の腕力なくして、持ち上げられる代物ではない。
それを難なく持ち上げ、ひっくり返してしまった。
「なにが編集長だ!このバカ野郎~
!!!」
疑いは晴れたどころか、怒りのボルテージはまさに最高潮に達していた。
しばらくして社主は帰った。
この一部始終をたった一人だけ、逃げずに見ていた生き証人が
現在、週刊現代で記者をやっているSくん。
その他の居残り編集部員たちは、不穏を察知して早々と退散していたらしい。
私も興奮冷めやらぬまま、ハタと、どうしたものか・・・
と、だだっ広い編集局フロアの床に膝を落として逡巡した挙句、
会社を去ることを半ば冗談半分、本気半分で決断したのだった。
疑われるいわれは、これっぽっちもなかったが、
こうまで社主に信頼されていなかったのか!!
という、くやしさで自棄クソになっていたのかも。
少し落ち着いてきたら、今度は段々腹が立ってきた。
こんなに精魂こめて作り上げてきた「ミス・シン」イベントなのに、
この云われ様はなんてこったぃ!
「ええい!もう我慢ならん!辞めてまえ~!」
いつしか野生の鉄馬が甦り、怒りの雄叫びを上げていた!
社主が社主なら、おれも俺だね。
このイベントのことを熟知している盟友だった、今は亡き小林一朗あてに
「納得いかない!今日限り、辞める。あとを頼む!」
と走り書きのメモを残して去ったのだった。
後先も考えずの出奔~!!!
深夜、自宅に帰り、妻に一部始終をありのままに話す。
妻は「あなたの好きに生きるべきよ」と悲しむどころか、応援してくれたが・・・。
考えてみたら私の結婚式の仲人は社主夫妻でもあった。
マンションをその前の年、買ったばかりで、
ローンもいっぱい残っている。
生まれて間もない次男坊の遊馬は、なんにも知らずにスヤスヤ・・・。
落ち着くと、現実の不安種が頭をよぎる・・・。
興奮のまま眠れぬ夜が過ぎ、日があけて、
「山田鉄馬がナイタイを去った!」――の報がまたたくマスコミ間に流れた。
あっちこっちから電話が入る。誰もが信じられないようだった。
なにせその頃、ナイタイ全盛期であり、私は新聞の方の編集長を足掛け10年以上も務めており、
曲りなりにも看板編集長ということで知られていた。
それから三日程して団先生にも知れたようだった。
自宅に電話が入り、
「ど、ど、どうした!悪い冗談はやめろ!
ミ、ミ、ミスシンが原因か!俺の責任か~!」
団先生は興奮すると、どもる癖がある。
「先生に責任はありませんよ。私の個人的な考えで決めたことです。バカバカしくて嫌になりました。ただそれだけなんです。ナイタイは辞めても先生との付き合いは変わりません。今後ともよろしくお願いしま~っす!」
「おい、早まるなよ~。俺が社主に取り成してやるから。必ず戻れ!なっ、おい!」
――次号へつづく 合掌
ただ遊べ、
帰らぬ道は誰も同じ、
柳は緑、花は紅(くれない)
(団先生の好きな言葉part4~中世小唄、隆達節より)
ー鬼六まつりー
平成6年の復筆後、話題作を次々と発表していった団 鬼六は、
新作発表に乗じて、出版記念パーティを度々開くようになるのだが、
これがのちに変じて「鬼六まつり」と名打つようになる。
気取った出版記念パーティとは程遠い。
なにせ、変態ファンやらヘンタイ芸人が大挙して押し寄せ、
しまいには、くんずほぐれつのドンチャン騒ぎになるからだ。
なんのことはない、出版記念にかこつけて、
派手な大宴会をしたかっただけ、だったのかも。
ある時期から「鉄馬っ!、ひとつ段取りよろしく~!」と任されるようになる。
場所選びから始まって、出し物の構成、進行、キャスティングにまで及ぶ。
会場はたいがい大箱のショーパブ、グランドキャバレー、キャバクラ、
時には屋形船だったり。
言わずもがなで、その時々の状況に応じて、演出も様々なのだが、
はた目には鷹揚に構えているようで、じつは団先生の注文は細かい。
なにせ、人を喜ばせるのが生きがいのような
サービス精神旺盛の人だったから。
「鬼プロ」時代には自ら写真集の制作やら、
映画の監督、演出も手がけている人だけに、
たかが宴会、されど宴会。ちょっとミスを犯せば、
「このドっアホ~!」 「アホ鉄馬!」の連発。
それでも、
「こちとら、会社の仕事をサボタージュして、
手弁当で奉公しているのに、割りにあわんな」
とは露とも思わないのだ。
むしろアホウ呼ばわりされながら、
喜び勇んで駆けずり回っている自分がいる。
(私も結局、ヘンタイか?)
昨夕、友人でライターの関口くんと連れ立って通夜に参会した。
増上寺のある大門駅の改札を出ると、
団先生とゆかりの弦巻カメラマンとばったり。五年ぶり。
各出版社の担当編集者とも受付や係りで久々に再会。
みんな元気そうでなにより。
弔問客には作家の北方謙三はじめ、丸茂ジュン、
女優で作家の小川美那子など錚々たる面々。
かとおもえば、有名AV女優やキャバ嬢がいたりで、
先生の交遊の幅広さを物語っていた。
遠くからニタニタ笑いながら近づいてくる男がいた。
立川談志の弟、松岡氏。「師匠は?」と聞くと、
「きょうは来れない、代理」と。
団先生と談志師匠の間にも色々あった・・・。
隣の席には若手美人女流棋士の船戸陽子二段。
屋形船ではお世話になった。 合掌
何せうぞ、
くすんで一期は夢よ、
ただ狂え
(閑吟集より、先生の好きな言葉)
団 鬼六死す!~エピソード1
<ー遭遇ー
団 鬼六との邂逅があってから数年が経っていた或る日、
偶然、まったくのプライベートで、思わぬ遭遇をした。
その日のことが忘れられない。
生まれて半年ばかりの長男、凌馬と妻の美佐子を連れ立って、
大宮八幡宮(杉並区永福町近く)で散歩していた時のことだった。
遠くから、幼児の手を引いて、よたよたと歩いてくる老人がいた。
手には釣竿とバケツ。
すれ違うまで気づかなかった。
よくある爺と孫の風景ぐらいにしか思っていなかった。
団先生だった。
「あれ!団先生!」
「ありゃ!山田くん!」
こんな時、男というものは不思議なもので、照れてしまう。
互いに頭をポリポリしながら、
「こんなところで会うとはね~!」
仕事柄、我々の場合、あまりプライベートは明かさないし、関与しなかった。それまでは。
その時、初めて人間、団鬼六を知った。
手に引いていた幼子とは、当時、小学校に上がる前の団先生の愛息、
ノブちゃん(信彦くん)だった。
団先生が再婚した安紀子夫人との間にできた次男坊。
55歳の頃に授かっていたので、
この時、団先生は還暦を過ぎた頃だったと思う。
さぞかし、可愛がっていたのだろう。
「うん、これからちょっと釣堀にね。息子の信彦だよ」
ただの好々爺だった。
「そうでしたか~」
先生のなんとなく気まずい気持ちは察したので、深くは突っ込まずに、
「いっぱい釣れたらいいね~!」
とノブちゃんに声を掛け、
気もそぞろに妻と息子を紹介し、
「先生、それではまた~」とその場は別れたのだった。
のち、先生と飲む時、あの日のことが思い出され、
互いに照れ笑いするのだった。
あの日以来、互いに秘密を分かち合うように、
対外的には一線を画して付き合ってきたのだった。
なにせ、団先生は「悦楽の帝王」だったし、
私は私で「ミスター・ナイトライフ」といわれていたのだから。
合掌
――遊びをせんと生まれけむ。
戯れせんとや生まれけむ。
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さえこそ動(ゆる)がるれ――
(団先生の好きな言葉part3=梁塵秘抄より)
ひとつの時代が終わった。
それだけ大きな存在だったと思う。
鉄馬的に、
まずは現代エロスの文化をここまで盛り立ててくれたことに感謝。
世界広しといえど、ここまで書ける作家がいただろうか。
マルキ・ド・サド?なんのその。
「花と蛇」のシリーズはあまりにも有名だが、
団 鬼六の真骨頂はそこではないような気がする。
逆に、それは団 鬼六を・・・マニアなマイナーな世界に封じこめた。
団 鬼六とは、そんなもんではない。
もっと普遍的でメジャー?であるべきはずが、
逆に「花と蛇」が邪魔をしたのかも。
初期の「親子丼」に団 鬼六の本性が見える。
食わんがための創作活動もあったが、それが団 鬼六の目的ではなかった筈だ。
がしかし、
元来無頼の快楽主義に徹して、「ままよ」とあえて時代の要請を拒むことはしなかった。
この豪放磊落さとサービス精神満開で走り続け、ついに団 鬼六を決定づけた。
団鬼六という独自の世界を彩る華麗な作品群を残しながら、
「わいはもう六十や、もうポルノは書けまへん」 と突然、断筆宣言したのが平成元年のこと。
それから6年後、「真剣師 小池重明」でセンセーショナルに復活し、
「外道の群れ」、「不貞の季節」、「美少年」と 続々と話題作を送り続けてきたのだった。
とりわけ「美少年」においては、もはやエロ、ポルノの領域では括れない、
芳醇な香りを漂わせた至上の文学へと昇華させている。
昨年刊行した「往きて還らず」然り。
息を引き取られた5月6日夜、先生宅に駆けつけた。
笑って送ろうと思っていたが、
最後のご尊顔を拝し、涙した。
ダイエットして少しスリムになった愛犬アリスはしょぼんとしていておとなしかった。
主人が亡くなったことがわかっているのだろうか。
明日から、酒を飲みながら団先生を偲んで、
ぽつぽつと思い出語りをしていこうかなと思っている。 享年79歳 合掌(平成16年撮影)
ひと月ぶりの更新・・・
まんずはぁ、ルーズだよね。
先日、変わり種の出版記念パーティに招かれた。
">">">">『キャバクラ嬢の作法』(総合法令出版刊)
class="p0" style="margin-top: 0pt; margin-bottom: 0pt">
発刊から10日で重版がかかり、すでに1万部が売れているとか。
装丁帯には「嬢王」「女帝」「夜王」原作者、倉科遼氏の推奨文。
パーティには倉科氏も出席していた。
著者はインフィニーグループ「禅」の酒巻明子ママ。
インフィニーといえば、眞田幹雄率いる埼玉最大のキャバクラグループ。
酒巻ママは20店に及ぶ同グループキャバ嬢の教育担当役員でもある。
どんな本かといえば、
月収100万以上の売れっ子キャバ嬢になるための手ほどき。
「作法」・・・なかなかうまいタイトル。
古い言葉だけど新しく感じる。
今から25年前、
キャバクラムーブメントの仕掛けをした時、
いつの日か女の子の憧れの職業にしてみせる!
と意気込んだものだった
(ぼくがまだ20代の若かりし頃・・・まずい、年がばれちゃう)
そういう仕事にはまだまだ根強い偏見のある時代だった。
あれから随分時間が経っているけど、まさかね、
キャバ嬢が女子高生のなりたい職業ランキング上位にランクされるとは・・・
そしてまたこの手の本が注目されたりするから面白いわけです。
人生まだまだやめられそうもありません。
仕事柄、常にデジカメは携帯してるのだけど、
あえて食い物の写真を撮るのには最近抵抗があるの。
多分、食い物ブログが溢れていることへの
自分なりのアンチテーゼなんだろうか。
(ちょっとヒネてるよね)
酒飲みだから、旨い酒の肴にはこだわりがあるし、
今日一日がんばった自分へのせめてものご褒美として、
酒の肴だけは、ちょっと贅沢してみるのだ。
池袋・西口の
ガールズ居酒屋「さくらプロジェクト」
は、女の子もかわいいけど、料理もいい。
(どっちが目的なんだよ!!)
九州産地直送をウリにしているだけあって、九州ネタが主要メニュー。
正直、これまで九州ネタはうとかった。
北国育ちなもので、
ついつい関東以北の懐かしい味にこだわりをもってしまう。
九州ネタでいままでよく食していたものといえば、
友人からも共喰いと揶揄される馬刺しであり、一般的な明太子、
あるいは薩摩揚げ、くらいのもので、
あまり詳しくないのだ。
ところがこの店に立ち寄るようになって、馬刺しがますます好きになった。
見た目も美しい馬刺し四点盛りはイケル。
そしてさっぱり味のもろこのから揚げ。
この2点は必ずオーダーの中に入る。
やはり焼酎が合うみたい。
先日、文春のH氏と飲んだときは氏の好みに合わせて
日本酒のぬる燗を久々にやったが、これがまた馬(うま)!
これからの季節、やっぱ熱燗かな。
エロかわいい女のコを賞でながら・・・
おへそがさらにgoo~!
ガールズ居酒屋のgirlは基本的に学生のバイトだったりするわけです。
特別ベッピンというわけではありません。
が、よくよくみるとみんな個性的で、なかなかチャーミングだったり、
エロかわいかったりするわけです。
で、ここのgirlはナニもしません。
ごめんね。期待を裏切って・・・
料理とお酒のお運びと注文とりが、girlの仕事です。
居酒屋ですから接客はしません。
でもフツウに会話のやりとりは当然あるわけです。
そこにこそ、ガールズ居酒屋のキャバクラを超えた魅力があるのです。
いずれ解説しますが、いまはまだナイショ・・・
くれぐれも、おさわりだけはご法度なので気をつけてくださいね。
12日夕刻、歌舞伎町で団鬼六先生の喜寿の祝いと
「往きて還らず」出版記念パーティ。
団先生ゆかりの錚々たるメンバーが参集した。
鬼六ファンで団先生を叔父貴と慕う作家の北方謙三先生
(挨拶で『往きて~』を凄い小説と絶賛していた)
はじめ、
女優の杉本彩、愛染恭子、小川美那子、関本郁夫監督、名脚本家の中島丈博、
さらに「団鬼六論」を著し、先ごろ「寝取られた男たち」を上梓したばかりの
神戸女学院大教授、堀珠喜女史。
かとおもえば王位戦七番勝負真っ最中の深浦康市王位
(こんなところで飲んでて大丈夫なのかな・・・)など多士済々。
ジャンルを超えた鬼六ファンで2百人キャパの黒鳥の湖が満杯状態。
私の隣席は「薔薇族」の伊藤文学編集長と評論家の上野昂志先生。
上野先生とは一昨年の花見の屋形舟以来だったが、
伊藤文学さんとは10年ほど前のインタビュー以来ではなかったか。
団先生と等しく、今年喜寿を迎えられたのだとか。
人生の大先輩でもある伊藤文学さんの話はとにかく面白くて楽しい。
話術の名手でもある。
団先生といい、伊藤文学さんといい、凄いパワーだ。感服する。
途中から彩流社の美人編集者、若田純子女史と
僕が勝手に呼びつけたフリーランスの根本くんがぼくらのテーブルへ合流。
この日、お盆だというのに、歌舞伎町は朝方まで喧騒で渦巻いていた。
団鬼六の好きな言葉 其の弐
ただ遊べ、
帰らぬ道は誰も同じ、
柳は緑、花は紅--
(中世小唄、隆達節)