そんなわけで色々書いていただこうと思ってます。
ご愛顧のほど、よろしくお願いいたします。
m(_ _)m
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写真の女性は「日本で一番、ゴールドの似合う女」
黄金咲ちひろちゃんです~
*注:鉄馬さんの愛人ではありません(笑)
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">">">"「耳かき店員殺人事件」 勘違いストーカー男に、またしても罪のない、若い女性の大切な命が奪わ れた。
しかも、守ろうとした関係のない祖母まで巻き込んで。
なんともやるせない、腹立たしい事件であります。
接客商売に勘違いストーカーは付きものとはいえ、ここに至ると異常!
ではあるのだけれど、悲しいかな、現代という時代を象徴する事件でもあります。
キャバクラしかり、ホンモノの恋愛に発展することもママにはあるけれど
実際は稀で、擬似恋愛を前提とした”遊び”であると承知のはずだが・・・。
とは分かっていながら、ついついハマるのがかわいい男の性・・・。
その男のかわいらしさが最近、なくなってきている。
今回のような、極端でかわいげのない事件のなんと増えてきたことか。
ようするに、”遊び”がないのだ。
”遊び”を知らないのだ。
男の作法、遊びの流儀を知らないのだ。
おとなになりきれない幼児男が増えているということだ。
(ある意味では純粋な男で、その気にさせた女が悪いという意見もあるが
それは違うでしょ)
安倍夜郎氏の「山本耳かき店」(ビックコミックオリジナル不定期連載)
から想を得てかどうかは知らないが、
くだんの「山本耳かき店」のコンセプトは、生殺しパブのそれである。
くすぐるようなソフトな耳かきは快感であり、さらにむっちり太もものひざ枕となれば、
これほどの癒しはザラにはない。
それだけで満足する男もいるかもしれないが、たいていの野郎というものは、
そこから先にムラムラが生ずるものなのだ。
さりげなく太ももをサワサワしたくなったり、
胸のふくらみに手を伸ばしてみたくなったり・・・。
まぁ、これが男の性。
ホンモノの恋人同士だと、そこから先は100%!ムフフ!モードに突入するわけだが。
ここでは男の性衝動が沸点に達したところでサヨナラとなるわけだから
「生ごろし」状態となるわけだ。
--「山本耳かき店」側は頑として「ウチはフーゾクではありません」
と主張するでしょうね。
しかしながら、これも厳密には「癒しフーゾク」にカテゴライズされる、
れっきとした風俗文化のひとつなのです。
シコシコドッピュン!!・・・の、いわゆる「ヌキ」ありの性サービスは
ナッシングですけどね。
まさに、現代という時代を表徴する、むしろ、
時代の先端を走る「ニッポンフーゾクの誇り」
と、堂々と胸を張っていただきたいものです。
膝枕耳掻きサービスというのは、なにも「山本耳かき店」からはじまったサービスではありません。古くは江戸時代から存在する接客、おもてなしのための高度な技術のひとつで、高級遊女もワザに磨きをかけたといわれ、現代でいうホスピタリティの極みに位置するくらいのものです。それが現代に至って、イメージクラブ(イメクラ)のオプションのひとつとして引き継がれていったわけです。
膝枕に耳かきというのは男にとっては、永遠の願望なのです。
かくいうわたしも、いまだに膝枕に耳掻き熱望派。
近ごろはムラムラしつつも、いつのまにか寝てしまっていることが多いようで、
ちと情けないです・・・。
ともあれ、林という男の狂刃に倒れた
まりなさんこと江尻美保さんと、身を投げ出して孫を守ろうとしたおばあ様の
ご冥福を心よりお祈りいたします。
角海老事件の背景
ペリリューの出張から帰った翌日の夕方、「角海老グループの鈴木会長が逮捕された。コメントをいただきたい」と、報知社会部のT記者から連絡が入った。すでに逮捕から1週間以上経過しているという。T記者は当然この事件を私も周知と思い、吉原の内情を取材するつもりだったらしい。
しかし出張から帰ったばかりで寝耳に水のことだったので、正直信じられない思いだった。私が知らなかったではカッコウがつかないので「今はたて込んでいるので、あとでこちらから連絡します」と、その場は逃げた。
急いで各方面に取材してみると、容疑内容は売春防止法の「場所提供」ということだった。そんなありきたりの容疑で?他店ならともかく、それは角海老にはありえないだろう?
これまた妙と感じ、さらに取材を進めると、「同グループの幹部が情報喫茶の運営にも手を染め、それを当局には届けず、リネン配送センターと虚偽報告していたことが発覚して当局をいたく刺激することになった」--というのが真相のようだ。
「情報喫茶を運営していたのは周辺の関係者だったらみんな知っていること」
なんだとか。
だとしたら、さもありなん。いやあ、それはいくらなんでもまずい。当局を舐めすぎだ。当局のプライド、ズタズタじゃないか。情報喫茶なんてのは、風営法の「客の誘引」にモロにかぶるところで、完璧な風営法違反だし。
歴史と伝統と格式を重んじ、業界最大手として、リーダー的な存在である同グループの、しかも鈴木会長が逮捕されたということは意外でもあり、また逮捕の真相が情報喫茶の絡みだったとすれば、ちょっと情けなくも感じる。
業界潰しのみせしめ摘発という捉え方もあるが、為政者もそこまで愚かであるとは私はおもいたくない。そもそも石原都政の歌舞伎町浄化作戦から始まった風俗粛清の嵐は来るところまできた、という感慨はぬぐえないが、ここまでだろう。
YESorNO、どちらかはっきりしないと満足できない合理主義者の典型、石原都知事のやり方は2000年以上の歴史を持つ日本の固有の文化土壌にはあてはまらないということだ。
YESorNOで割り切れるほど、人生も社会も単純ではないし、YESorNOで大自然も宇宙も割り切れるはずもない。それをもっとも理解し、たくみに包含した文化を長い年月をかけて醸成したのが日本文化であり、世界に誇れるオリジナリティではなかったか。
江戸吉原から連綿と続いた遊郭文化はすでにないけれど、かろうじて規制されつつも、時には為政者に守られ、育てられきたのが世界に冠たるアナログ文化の最高峰、ニッポン風俗なのだ。
それを「臭いものには蓋をしろ」、つまりは裏に引っ込めろと、ことごとく規制に乗り出したのが石原都政だった。
表むきは綺麗になった。しかし、水面下に潜るとどういうことになるか。ゆっくりと腐った膿みがやがて社会の表層に噴出してくることになるだろう。
すでに社会のここかしこで、「狂った果実」のごとく、犯罪の萌芽が芽吹き始めている。
(part43)山田鉄馬の風俗綺譚 其の四十三
再び新宿・歌舞伎町へ――part6
“歌舞伎町浄化作戦”の実質的司令塔となったのは元広島県警本部長で、石原都知事の意を受けて副知事に就任した竹花豊氏だった。副知事主導のもと“フーゾク粛清”の嵐が本格化したのは平成15~17年の3年間に及び、歌舞伎町と池袋の店舗型イメージクラブ(イメクラ)、性感ヘルスが摘発され壊滅状態となる。もとより、無届け営業の違法店だったから宿命の粛清ではあったのだが。
一般的には店舗型のイメクラは届出済みの合法ファッションヘルスと同様に考えていたフーゾクユーザーや働く女のコが多かった。しかし、厳密には無届店であり、風営法違反にあたる。昭和60年(‘85)2月に施行された改正風営法(新風営法)以降、都内においては新規の店舗型ヘルスは開業できない。都内で認められているのは昭和60年の新風営法施行直前までに所轄に届出が間に合った68店舗のみ。有名どころでは歌舞伎町のアメリカンクリスタル、USAなど、いまでは老舗ファッションヘルスと呼ばれる一群のことだ。後、平成に入りイメクラがブームとなるが、違法であるにもかかわらず盛り場の一等地に堂々と派手な看板を出して店舗展開をしていけたのはナゼか?じつはブームと相前後してオウム真理教が社会を震撼させる重大事件を次々と犯し、警察当局は身動きができなかったからである。当局はオウム事件に忙殺され、風俗の取り締まりどころではなかった。その間隙を縫ってイメクラ・性感ヘルスは野放図に増えすぎる。派手に増えすぎれば当局も動く、というのがニッポン・フーゾクの歴史的原理なのだが、今回はオウムに助けられたといったところか。オウム事件が終息した平成12年ころから、ようやくイメクラ・性感ヘルスの規制が厳しくなり始めていた。
その前年の平成11年4月、それまでは法律の埒外だった出張マッサージが届出制となり、合法化されていた。当局の思惑はとにかく「目立つ、卑猥(ひわい)な看板を減らし、街の景観をキレイにしよう」――そんな、“臭いものには蓋(ふた)”的意図が透けて見えるものだったが、これも時代の流れであり、あまりにも違法店舗フーゾクが増えすぎた結末だった。事務所で電話のみの応対で女のコを派遣する出張ヘルスは合法化以降増え続け、昨年(平成18)5月の風営法改正直前までに全国に2万2千軒。歌舞伎町をはじめとする盛り場がいまひとつ気勢が上がらない中で、そこそこ健闘はしているものの、これまでの店舗型フーゾクのような我が国の誇るべきフーゾクの面目躍如としたアイデアバリエーション、つまり新しい“あそび”が、まだ生まれてきていない、というのが今日の状況である。裏を返せば、どんな時代にもしたたかに挑み続けてきた世界最先端をゆくニッポン・フーゾクの今がまさに仕掛け時ともいえる。
新しい“あそび”の萌芽を次号からは検証を加えつつ紹介していこう。(つづく)
竹書房刊「快援隊」連載中!(part42)山田鉄馬の風俗綺譚 其の四十二
再び新宿・歌舞伎町へ――part5
‘94(平成6)当時、中国マフィアの跳梁跋扈を許した背景には、間接的に暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)の施行も絡んでいた。
「この法律自体は良いことだが、プラスもあればマイナスもありで、ヤクザが手出ししないことをいいことに、チャイニーズが大手を振って好き放題するようになってしまう。むしろそれまでは世間一般的なイメージとは違って、歌舞伎町ほど安心して遊べる街はなかったのです」(歌舞伎町のクラブ経営者)
先号で詳述した中国人による歌舞伎町を舞台にした一連の凄惨な事件は完璧に歌舞伎町を“怖い街”として世間に知らしめることになる。ここまでくると為政者も手をこまねいて傍観するわけにもいかない。新宿署を中心に不法滞在の中国人一掃を目的とした「環境浄化作戦」を展開。さらに‘98年(平成10)、警視庁は歌舞伎町一帯を指定し「国際組織犯罪特別捜査隊」を発足させる。外国人による凶悪犯罪が年毎に急増していた背景もあった。
歌舞伎町のビルオーナーで在日二世中国人のO氏(58)が語る。
「そもそもチャイニーズマフィアを生み出していった直接の背景は’84年に遡るのです。当時の中曽根首相時代、訪中して胡総書記と会談し、10万人の留学生を受け入れると約束しました。以後大量の中国人留学生が入国するのですが、じつはこの留学生クズレがチャイニーズマフィアを生み出す遠因となりました。無論、マジメな学生もたくさんいて、祖国に帰って活躍している人や、民間レベルで日本との親善に頑張っている人もたくさん知っていますが、中には悪いヤツもいた。やがて蛇頭ビジネスに手を染めるアウトローが徒党を組むようになり、麻薬、拳銃の密輸、盗品の売買、カード偽造、集団強盗、非合法風俗店の経営など、ありとあらゆるアングラビジネスに手を染めていくことになったわけです。歌舞伎町という街の恩恵を受けて育った私としては、同国人として慙愧にたえません。中国人の悪いイメージをなんとか返上したいものです。素晴らしい人間もたくさんいますから」
同時に上海人対福建人の利権の絡んだ抗争事件などが勃発し、平和ニッポンを驚愕させる。それらすべての犯罪が、あたかも歌舞伎町を基点に全国に波及していたかのような印象を一般には与えた。
折りも折り、「国際組織犯罪特別捜査隊」が発足した翌年の’99年4月(平成11)、石原慎太郎が東京都知事に就任する。“怖い街”、“悪の根源”と決めつけた石原都政は“歌舞伎町潰し”を堂々と公言、さまざまな取り締まりを強化していくことになる。(つづく)
竹書房刊 「快援隊」にて連載中!
(part41)山田鉄馬の風俗綺譚 其の四十一
再び新宿・歌舞伎町へ――part4
歌舞伎町を二分する通称「花道通り」を境に、大久保寄りの歌舞伎町二丁目はクラブ、ラブホテル街。そして、JR新宿駅寄りの一丁目は世界に冠たる“性都”と化す。
キャバレー、ピンサロ、ソープランド、ストリップといった従来型の風俗に加え、1980年(昭55)前後を基点に、新たに台頭してきたノーパン喫茶、のぞき部屋、ファッション・ヘルス、デート喫茶など、アイデア射精産業が派手なネオンを競い合い、猥雑な賑わいをみせていく。
この時点で、歌舞伎町と他所の歓楽街との特徴的な相違点があった。
ヤクザの仕切りが曖昧だったことである。もともと、靖国通りを隔てた新宿駅周辺は、戦後復興期に“光は新宿から”――の名キャッチフレーズを掲げて、その名を天下に知らしめたテキヤ系の尾津組がきっちりとシキリを入れた。ところが後に遅れて、葦の原っぱから街づくりが始まった新興の歌舞伎町は関東博徒系の各グループが入り乱れて進出し、互いに牽制し合いながらも、いつしか棲み分けがなされ、それぞれがシノギを享受するといった不思議な形ができあがっていく。
歌舞伎町でクラブ経営を40年以上続けているオーナー社長(73)がこう語る。
「大体、昔から、ひとつ所のシマ(縄張り)は、どこそこの組と決まっていたものですが、いざ歌舞伎町となると違っていましたね。ヤクザ同士の縄張り争いがもっとひんぱんに起こりそうなのに、逆でした。水面下では小さな小競り合いもありましたけど、意外に少なくて、表面的にはトラブルを避けて仲良くやっている。大型の飲食ビルなんかだと、極端な話、フロアごとにシキリが違って、ひとつのビルに10近くの組の出入りがある場合なんかもあって、擦れ違ったりすると、きちっと互いに挨拶もする。トラブルのは、たいがい歌舞伎町の特別な事情を知らない地方から出てきたばかりの、粋がったチンピラでしたね。一般的なイメージとは違って、ある意味、歌舞伎町ほど安心して遊べる街はなかったと思います。そこへもってきて、暴対法(暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律)の施行。シノギがしにくくなって弱体化した間隙を縫って、チャイニーズマフィアが大手を振って好き放題する街になってしまうんです。日本のヤクザが手出しをしないことをいいことにね」
’94年(平成6)2月、中国クラブ「夢心」で福建人同士の殺人事件が発生。同年6月、中国クラブ「シャネル」で福建人対上海人の抗争。そして、同年8月10日の中国料理店「快活林」を舞台にした青龍刀殺人事件は、チャニーズマフィアの暗躍をはじめて世間に知らしめた凄惨な事件だった。“怖い歌舞伎町”のイメージを決定づけてしまう。
もはや当局も看過できない。これを契機に、新宿署は不法滞在の中国人一掃を目的とした「環境浄化作戦」を展開。さらに‘98年(平成10)、警視庁は歌舞伎町一帯を指定し「国際組織犯罪特別捜査隊」を発足させることになる。歌舞伎町浄化作戦の始まりだった。(つづく) 竹書房「快援隊」連載中!
(part40)山田鉄馬の風俗綺譚 其の四十
再び新宿・歌舞伎町へ――part3
核心に入る前に、どうしても歌舞伎町という特殊な街の生成過程に触れておかなくてはならない。ジョイパックグループを創始した林以文がレジャービル、地球会館を作ったのが昭和30年代のはじめ頃。この林以文を筆頭に、以降、歌舞伎町のもうひとつのシンボルともいえる風林会館をつくった林再旺。王城、メトロビルの方元俊。アシベ会館の黄江夏。リービルの利騰山など、歌舞伎町の草創期は錚々たる台湾華僑人脈と在日朝鮮人に占められていた。石原都知事がいうところの“第三国人”が戦後まもなく、葦の原っぱを二束三文の値段で買い占め、やがて訪れる高度成長期には、それらの土地が何倍にも膨らんでいった。
一方で、靖国通りを隔てた新宿駅東口周辺は戦後まもなくは焼け跡に闇市。伊勢丹、三越デパートのある新宿三丁目一帯は闇市エリアで、テキヤ系の尾津組が尾津マーケットをつくり、「光は新宿より」の名キャッチフレーズを掲げて、シキリを入れた。やがて東口、武蔵野通り、三光町一帯が50年~80年代にかけて、文化、流行の発信地となり、奇しくも尾津組組長が提唱した「光は新宿より」が体現される。
同じ新宿でも、そこから靖国通り一本を隔てた歌舞伎町はガラリと様相が変わり、現在のような歓楽街としての体裁ができあがっていくのは、昭和33年の売防法施行以後しばらく経ってからのことである。野郎どもの下半身を慰めていた特殊飲食街、俗に赤線があった新宿二丁目、青線があった現在のゴールデン街からの流出組ばかりか、東京のありとあらゆる風俗が歌舞伎町をめざして集まってくるようになる。
昭和38年に闇市が廃止となった時点から、尾津組のシキリは序序に緩み始め、とくに歌舞伎町は博徒系が進出するようになり、テキヤ系と入り乱れて、混沌とした色合いを濃くしていく。新宿駅周辺と歌舞伎町とは住民もそしてヤクザも住み分けがされていたのだ。一方が文化、流行の発信地として華ばなしく発展していったのに対し、歌舞伎町という街はその発祥からして無国籍であり、他の伝統的な盛り場とは一線を画していたのだ。実質的には立ち上がってわずか30年、その歴史は意外と浅い。しかし、その時空の密度は他のどの歓楽街よりも濃く、最速だった。世界に冠たる歓楽街として秒速でのしあがる。
80年代から90年代のピーク時、歌舞伎町には一日に50万人もの老若男女が出入りすると言われたものだが、あながち誇張ではないだろう。花道通りを堺に、歌舞伎町は新宿駅寄りの一丁目と大久保寄りの二丁目に分かれるのだが、とりわけ“性都”としてのイメージを創り出したのが歌舞伎町一丁目だった。東西に5百メートル、南北に3百メートルの狭い一画に、キャバレー、ピンサロ、ソープランド、ストリップといった従来型の風俗に加え、新たに参入してきたノーパン喫茶、のぞき部屋、個室マッサージ、デート喫茶、ビニ本屋などが派手なネオンを競い合い、あたかも“エロのおもちゃ箱”をひっくり返したような猥雑な賑わいをみせていく(つづく)
竹書房刊 「快援隊」にて連載中!
再び新宿・歌舞伎町へ――part2
来年(‘08)4月には歌舞伎町のシンボルともいえるコマ劇場内のすべてのテナントがたち退き、取り壊されるという。
歴史の浅い歌舞伎町が、秒速で東洋一の歓楽街にのしあがった一部始終を見続けてきたコマ劇。だが、築50年とあれば、ビル耐用年数もとっくに過ぎているのだし、まぁ、残念だけどやむなしか。それにしても、一昨年、1億円近い費用をかけて改装したのは一体何だったのか。このあたりに、行政側が主導する都市再開発計画というご立派な大義名分とは裏腹の、現場サイドとのギャップを、鉄馬的には常に感じてきた。つまり、役人が計画した通りに、あの歌舞伎町が変わるとは、到底思えない。もともと国策だった丸の内や、六本木ミッドタウンとはワケが違う。歌舞伎町という街は、その発祥、生成、発展の歴史過程からして特殊であり、異形なのだから、官僚の方程式にはまず、当て嵌らないだろう。表面的にはこの2、3年で急変し、歌舞伎町にはかつての面影はない。けれど、20世紀の、世界に冠たるニッポン文化の一翼を実質的に牽引してきたのも歌舞伎町だ。それを全否定するかのような政治的施策は、あまりにも極端すぎる!突き詰めると、歴史的にそのような強引な施策の背景には、必ず利権が絡むのだが、その辺は現在調査中であり、迂闊なことは言えない・・・。
前号からの続きで、知人の厚生労働省官僚Mの話が続く――「同じく来年12月から’09年にかけて、コマ劇の向かいにある東和会館そして、コマ劇場前広場(シネシティ広場)を取り囲むように林立する東急ミラノ、地球会館、ヒューマックスビルなどの大型レジャービルが取り壊し、もしくは改築するというのは、かなり煮詰まってきた話だ」という。確かに歌舞伎町再開発計画は今から十年も前から出ている話だった。もしMの話が事実だとすれば、歌舞伎町の中心がスクラップ状態になるわけで、歌舞伎町は実質的にこの時点で死ぬかもしれない。というのがフツーだが、鉄馬的にはそうはならない。そうかな、そのまんま進むかな~。いやいや、そんなに単純な街じゃないでしょう、ましてや、石原都知事は別にして、住民も遊びに来るサラリーマンも、そして文化人も、誰も望んでいないことをナゼ?というのが鉄馬的本音だ。
林似文という台湾人がいた。後に在日華僑のトップリーダーとなった実力者だ。この林という男が人工甘味料のズルチンで膨大な富を築き、歌舞伎町に地球会館というレジャービルをつくった。歌舞伎町ができたてのほやほや、昭和30年代のはじめの頃だった。やがて彼が創始したジョイパック・グループは世界的なアミューズメント企業に成長する。この林以文を筆頭に、歌舞伎町のもうひとつのシンボルでもある風林会館をつくった林再旺。アシベ会館のオーナー、黄江夏。リービルの利騰山。メトロビルの方元俊などなど。数えあげればきりがないのでこの辺にするけれども、歌舞伎町の生成にどうしても触れなきゃいけなくなった。(つづく)
再び新宿・歌舞伎町へ――。
戦後間もない頃、あたり一面、葦の繁る沼地だった。復興期にこれを埋め立て、歌舞伎の劇場をつくる計画がもちあがり、計画は頓挫したが歌舞伎町という町名はそこから生まれた。バラックがぽつぽつと点在するそのあたり一帯、二束三文の土地を根こそぎ買い上げていったのが台湾華僑や在日朝鮮人たちであり、その発祥からして、すでに無国籍の色合いが強かった。歌舞伎町が今のような歓楽街になったのは、昭和33年3月の売春防止法によるところが大きい。東京中のありとあらゆる風俗が歌舞伎町に集中したのだ。
とりわけ、1980年(昭和55)以降、ノーパン喫茶からはじまり、のぞき部屋、個室マッサージなど、アイデア射精産業のニュー風俗台頭のあたりから、イッキに“不夜城”歌舞伎町の名が全国区となった。
不肖、山田鉄馬が歌舞伎町と深くかかわるようになったのも、この時期からである。およそ30年にわたって歌舞伎町を見続けてきたことになる。この間、ファッション・ヘルス、キャバクラ、テレクラ、ソフトSM、性感ヘルス、イメージクラブなど、ナイタイが主導した風俗トレンド、ムーブメントの「仕掛け」に直接たずさわり、少し大げさになるかもしれないが、世界に、そして人類に誇れるニッポン・フーゾクの一翼を担ってくることができた――と、そんな自負のようなものを感じながら生きてきた。
そして2007年――いま、歌舞伎町という街の混沌は底なし沼だ。日本に存在する盛り場の歴史の中では異彩を放ち、わずか50年の短い歴史の歌舞伎町が、東洋一の歓楽街に、秒速でのし上がったとおもったら、このざまだ。
いま、歌舞伎町にかつての面影はない。その経緯は、本誌の連載でたびたび解説してきたので、あえて深くは触らないが、時代は、社会は、そして人類は未曾有のグローバル化を迎え、なぜかしら、終息に向かって、生き急いでいるような感じがしてならない。このグローバル化の中にあって、日本が世界に誇れる固有の文化であるフーゾクの根をたやしてはならないのだ!
石原都政が主導した風俗粛清の嵐のツケは、やがて社会の表層に膿みのように噴出してくるのは明白であり、この先、さらに十年後のニッポンフーゾクを見据えて、腹をくくって闘うつもりだ。ちなみに、友人の厚生労働省の官僚幹部Mが、プライベートな飲み席でこんなことを語った。
あまり、公には報じられていないのだがと前置きし、「いま、歌舞伎町で大規模な再開発事業の計画が進められている。来年(‘08)4月には歌舞伎町のシンボルであるコマ劇場内のすべてのテナントが立ち退き、取り壊される。さらに、12月には隣接する東急ミラノビルもすべてのテナントを立ち退かせ、ビルの改築工事に着手する。同様に周辺の映画館が入っているビルも同時期に取り壊しとなり、来年以降、歌舞伎町のど真ん中がスクラップ状態に陥る」と――(次号につづく)